思考のよせなべ

清水喜文ブログ

蝉が鳴く理由

 

 ――そろそろ旅立つ時だ。

 どこからか声が聞こえた。

「誰?」

 ――私は、君の本能だ。

「本能?」

 ――ああ、そうだ。早く旅立ちなさい。

「どこに行くというの? ここにいれば安全なのに」

 僕は本能に反抗する。

「ここには友達もたくさんいるのに」

 

 去年、仲の良かった友達が突然、消えたことを思い出した。

 あの時は悲しくて、思い切り泣いた。

「僕を残して、どこに行ってしまったの」と。

 僕は友達を残して、どこにも行きたくはない。

 誰も悲しませたくはないんだ。

 

 ――地上へ行け。

 本能は、再び僕にささやく。

 「嫌だ。僕はここにいたい」

 だが僕の身体は、心を無視して、地上へと歩み出す。

 

 友達の声がした。

 僕を呼んでいるようだ。

 「せめて、別れの挨拶をさせてよ」

 そう請うが、僕の身体は止まらない。

 

 

 しばらくして、地上に出た。

 そこは初めてで溢れていた。

 風の感触、耳に届けられる無数の音、夜空を彩る星々の輝き……。

「……これが、地上」

 少しも怖くない。

 それどころか、ちょっと楽しい。

 だが、と考える。

「僕は、ここで何をすればいいの?」

 ――高いところへ登れ。

 本能が告げる。

「高いところ?」

 目の前にある木を僕は見上げる。

「これに登るんだね」

 僕は登った。

「それで、どうすればいい?」

 ――待つのだ。

「待つ? 何を?」

 ――その時が来るのを。

 

 どれくらいの時が過ぎただろう。

 それは不意に始まった。

 僕は、僕でない何かに変わろうとしている。

 ――それは、違うな。君は本来の自分に戻るのだ。

 

 朝日が顔をのぞかせる頃、僕は生まれ変わった。

 ――空を飛びたいか?

「空を?」

 僕は、下を見た。

 はるか下に地面が見える。

 落ちたら、ただでは済まないだろう。

 だが……。

「飛びたい」

 そう願った瞬間、僕は空に舞っていた。

 ――君は、自由だ。

「僕は、自由だ」

 僕と、僕の本能が同時に叫ぶ。

 涙が出た。

 ああ、僕はこれを、この瞬間をずっと待ち焦がれていたのだ。

 

 ふと、土の中にいる仲間たちの顔が浮かんだ。

 彼らは今、泣いているだろうか?

 可能ならば、彼らに知らせたい。

 僕は今、自由だと。

 幸せなのだと。

 

 なあ、君は知っていたかい?

 地中の仲間に声が届くことを願って、蝉たちは大声で鳴くんだよ。

 

 

 文 清水喜文