思考のよせなべ

清水喜文ブログ

視る者と、見る者

 

見る・・・ 視覚によって対象物を認識すること。

視る・・・「見る」と同義だが、それよりも注意して視線を注ぐ。

 

 

 【カエサル、運命の日】

 

 どこにでもあるような川だった。

 幅は狭く、水深も浅い。

 川というよりも小川だな、と男は呟いた。

 普通ならば、誰もが気にも留めずに、ただ通り過ぎるであろう小川。

 

 だが、と男は後方を振り返る。

 その川が、4500人もの男たちを立ち止まらせている。

 男たちは全員、屈強な戦士たちだ。

 そのほとんどの顔に、不安が見てとれる。

 異様な光景だった。

 あきらかに、彼らはこの川を恐れている。

 

 なあ、と隣から声がかけられた。

 見ると、幼馴染の男が不思議そうな顔をしていた。

「どうしたんだ?」

 あれは、と戦士たちに目をやる。

「なぜ渡らない?」

 なるほど、と男は思う。

 この川の何が、我らを怯えさせているのか。

 それが、分からない者もいるのだな。

 

 騎乗した将校が、前に出てきた。

 彼は、この軍の司令官だった。

 男は畏敬の念をもって、馬上の人を見上げる。

 司令官は川岸まで歩を進めると、立ち止まった。

 そのまま黙り込む。

 

 ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす。

 何かを予感したのか、馬の鼻息が荒くなる。

 男は司令官の背中を見つめた。

 英雄と呼ばれるにふさわしい彼が、めずらしく躊躇しているのが分かる。

 恐れているのだ。

 この川を。

 

 フウっ、と司令官が息を吐いた。

 覚悟を決めたのだ、と男は悟る。

 司令官がゆっくりと振り返った。

 その顔に、もはや迷いはない。

 

「ここを渡れば人間世界の破滅……」

 司令官が、口を開く。

「渡らなければ私の破滅……」

 彼の声は決して大きくはなかったが、力強く皆の心に響く。

「神々の待つところ……」

 ドクン、と男の心臓が鳴る。

「我々を侮辱した敵の待つところへ進もう‼」

 

 男たちが歓声をあげる中、司令官は叫ぶ。

「賽は投げられた」

 

  文 清水喜文

  

司令官の名は、ガイウス・ユリウス・カエサル

シーザーという名の方が有名なのかもしれません。

共和制ローマ期の政治家であり、軍人。

文中にあった「賽は投げられた」の他に、「ブルータス、お前もか」という言葉が有名。

 

そして、彼らが渡るのを躊躇していた川の名は、ルビコン川。

本当に、ごく普通の川なのだそうです。

だがこの川が、共和制ローマと 属州ガリアを分ける国境線であったために、軍団を率いてこれを超えることは禁じられていました。

 

紀元前49年。

ガリア属州総督だったカエサルは、その任を解かれ、本国召還を命じられます。

そのままローマに戻れば身の破滅と悟ったカエサルは、反逆することを決意します。

そして軍を率いてルビコン川を渡る。

その時に「賽は投げられた」といって檄を飛ばしたのです。

 

 

 【視る者の不幸】

 

カエサルにとって、ルビコン川はとてつもなくでかい壁で。

その意味を知らない兵士にとっては、それはただの川で。

カエサルが臆病なのではなくて。

兵士に勇気がある訳ではなくて。

などと考えていたら、ふと思ったのです。

どちらが幸せなのかな、と。

 

 

【震える兵士】

 

 その若い兵士は震えていた。

 戦場である。

 が、未だ敵の姿は見えない。

 そんな時から、すでにその兵士は震えているのだ。

 それを見て別の兵士が嗤う。

「臆病者だな」と。

 

「もし君たちに、私の半分でも、ものを見る目があったら、君たちはとっくに逃げ出しているよ」

 若い兵士はそう答えた。

 

 彼の名は、ナポレオン・ボナパルト

 後に、英雄と呼ばれるようになる男。

 

 文 清水喜文