思考のよせなべ

清水喜文ブログ

もうひとつの輪廻転生の話

 

彼女は、澄んだ水の中で生まれた。

冷たい世界。

そこが、その頃の彼女の全てだった。

 

彼女は泳げるようになると、砂利の中から飛び出し、川を下り始める。

なぜ川を下るのかは、わからない。

ただ、本能がそう命じている。

 

やがて、広い場所に出る。

 

これまでと違う世界だ。

ここがゴールか、と一瞬考える。

だがすぐに、違う、と本能が答えた。

「まだ、旅は始まったばかりなのだ」、と本能は語りかける。

「北へ向かえ。それが次の目的地だ」

 

旅を続けた。

随分大きくなったものだ、と自分の身体を見る。

「海」という場所には、栄養分が多い。

生まれ故郷を旅立ってよかったと、今では思う。

 

ある時、声がした。

本能からの呼びかけだ。

「生まれた場所へ帰るのだ」

そう聞こえる。

正直なところ、無視したい考えだった。

だが、時が経つにつれて、その声は大きくなっていった。

 

生まれた川は、すぐにわかった。

匂いを、覚えていたのだ。

 

川に入ると、大勢仲間たちがいた。

誰もが、本能に突き動かされるように、上流へ向かう。

 

途中、以前はなかったはずの、段差があった。

匂いを嗅ぐと、「自然」ではない、何か嫌な感じがした。

だが、乗り越えられない高さではない。

 

     *

 

間もなく来るぞ。

本能がそう告げている。

彼は、川に向かった。

年に一度の恵みが、間もなく、海から帰ってくる。

 

     *

 

川が浅くなった。

岩が多くなった。

泳ぐたびに、岩を乗り越えるたびに、体に傷ができる。

前方を見ると、仲間たちが立ち往生しているのが見えた。

彼らをかき分け、前に出ると、その原因が分かった。

小さな滝。

それを乗り越えられないのだ。

彼女は勢いをつけて、飛んだ。

 

     *

 

彼の目の前に、大きな鮭が迫ってきた。

捕まえようと慌てて口を開くが、遅かった。

それは、彼の口をかすめて、水の中に消えていった。

 

     *

 

大きな動物がいた。

タイミングがずれていたら、その大きな口に捕らえられていただろう。

ほっと息を吐くと、彼女は泳ぎ始める。

 

     *

 

次は、上手く捕まえられた。

彼は獲物をくわえると、川を出て、森に向かう。

腹を喰った。

美味い、と舌を鳴らす。

その時、本能が語りかけてきた。

 「全部食べないで、森に与えるのだ」

 彼は素直にそれに従い、再び、川に向かった。

 

     *

 

彼女は、泳ぎきった。

生まれた場所へ着いたのだ。

これから何をすればいいのか、と不安には思わない。

ただ本能の命ずるままに、生命を生んだ。

 

もう力が残っていなかった。

なす術もなく、川底へ落ちていく。

「お疲れ様」

本能が、そう告げている。

もう休んでいいんだよ、と。

 

彼女は溶けた。

海で蓄えた栄養を、川に与えながら、消えていく。

 

森で朽ちた生命も、そこに栄養を還した。

 

魂の転生ではない、もう一つの輪廻転生。

 

文、清水喜文